アーユルヴェーダ塾ジュニャーナ塾長日記

アーユルヴェーダについて学ぶアーユルヴェーダ塾ジュニャーナを主催している「塾長」が古典書にもとづいたアーユルヴェーダのお話を日々綴っています。

仕事について考える~その6~

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

前回まで「ダルマ」のお話をしたが、今回は「アルタ」のお話。

「アルタ」の意味は「実利」
「お金を稼ぐ」ことも人生の中の一つの目的であるといわれている。

 

実は、この考え方に日本人は抵抗を感じる人が多い。
「お金を稼ぐこと」が「卑しい人」「がめつい人」「なにか悪いことをしているのではないか」というマイナスなイメージが強いからだ。
日本はそもそも島国で資源に恵まれていない国であり、戦争も経験していて非常に貧しい時代を経てきているので、どうしても質素倹約、清貧の思想といった言葉が美徳されるお国柄なのだ。

 

インドでも「不貧(ふとん)」と言って貪ってはいけない、必要以上にお金や物を所有しない、という考え方もある。お金は欲望を生み出すからだ。
とはいえ、これは出家などをする人を対象としている考え方である。

 

出家などをしない一般人は「お金を稼ぐ」ことが人生の目的の一つであり、解脱への道と考える。

なぜなら、お金がないと前回お話した「ダルマ」を守ることができないからだ。
ダルマには法を守ることでもある。
お金がないと泥棒をしたり、よからぬことをやらかしてしまうからだ。
泥棒は法に反する。道徳や倫理からはずれた行為もダルマを守っていないことになる。
ダルマは役割や使命を果たすことでもある。
家庭を守ったり、子供を育てることが役割であれば、お金がなければ家庭を守ったり、子供を育てることができない。
使命を果たすには学ぶことが必要な時もある。
ヨガのインストラクターになってヨガを広めるのが使命だとしたら、ヨガを学ぶためにスクールへ行ったり、資格を取らなければならない。
そのためにはお金がなければできないのだ。

また、お金があればお布施をしたり寄付をしたり、社会貢献や誰かの役に立つこともできる。
例えば、どこかで災害がおこりボランティア活動をしたくても交通費がなければ行けないし、長靴や軍手を買ったりすることもできないのだ。

様々な観点から「お金を稼ぐ」ことを推奨しているのだ。

 

では、アーユルヴェーダでは「お金を稼ぐ」ことについてどう考えるのか。
アーユルヴェーダの元祖教科書のチャラカ・サンヒターでもお金を稼ぐことについて触れられている。医学書なのに「お金を稼ぐ」ことに触れられていることがおもしろく非常に納得ができる説明がされている。

 

前回もお話したがアーユルヴェーダでは心の「ざわつき」も病気である。お金がないと「明日の支払いどうしょう」「来月からどうやって生活していこう」などというような不安と心配で心の「ざわつき」がおきる。
それが病気なのだ。

 

アメリカのある調査で、借金がある人のストレスは、借金のストレスのない人に比べて心身にどのような影響があるのかを調査した結果がある。

借金のストレスがある人は、借金のストレスがない人と比べて
睡眠時間が少なくなる傾向が13倍以上
深刻な不安を抱える状態が7倍以上
他人に八つ当たりする傾向がほぼ7倍
深刻なうつ状態になる傾向がほぼ6倍
潰瘍や消化器系の病気になる傾向が4倍
心臓病や偏頭痛になる傾向が2倍

という結果がでている。

現代的にも「お金がない」という悩みから病気の発症率が高くなることが理解できる。

アーユルヴェーダは病気の治療だけではなく、病気が発症しないように予防する方法を教えてくれる学問である。
そのため、アーユルヴェーダでは「お金を稼げ」と言う。
なぜなら、アーユルヴェーダでは不安も心配事も病気。
病気である不安や心配事を起こさせないためには「お金を稼げばいい」という非常に単純明解な理論なのだ。

お金を稼ぐことで生活が豊かになり快適になれば不安や心配事も起きない。
つまり病気にならないのだ。
もちろん、欲望に溺れてお金を貯めこむことではないし、人から奪ってお金を稼ぐことではない。
人にバカにされたり非難されないような仕事に携わるべき、ときちんと注意されている。

また、お金がなければ病気の治療はできない。
お金がなくて病気の治療ができなければ、死ぬほどの重症な病気ではなくても死を招くこともある。貧困率が高い国で寿命が長い国などない。日本では考えられないような病気で亡くなる方が世界にはたくさんいる。

日本では健康保険制度があるので(いろいろ問題もあるが・・・)、病院の窓口で大金を払う必要はなく、小児の医療費が無料の地域も一部あるが、大人は健康保険料を払っていてもいくらかはお金を払わなければならない。

また、お金があれば治療の選択幅も広がる。
わかりやすいのが「歯」
差し歯を作るのに保険の範囲内で作ったものと自費で作るものではかなり見た目が違う。
余談だが、アーユルヴェーダでは見た目も大事だ。見た目が悪いと「こんな歯じゃ笑えない」「変な風にみられてないか」などと心がざわつくから見た目も大切なのだ。
美しい差し歯にするのには10万~20万円なんてかかる場合もある。
お金があれば自費で美しい歯を手に入れて口元を気にせず「満面の笑み」で生活できるのだ。
それが病気の予防になるのだ。

それから、お金があれば保険がきかない先進医療を選択することができる。
未認可の薬を使うこともできる。
インドへ行って本格的なアーユルヴェーダの治療を受けることも可能だ。
インドへ行かなくてもアーユルヴェーダの薬草を輸入する場合には、
安全性を考えるとそこそこのお値段のものを選んだ方がいいしね。
現代は、お金さえあればいろんな病気の治療ができる時代だ。
怪しいものもたくさんあるので何を選択するかはまた別の話だが、
いろんな治療の選択ができることは、寿命を延ばせる確率も高くなるのだ。
アーユルヴェーダは長寿を目指す医学でもある。
そのためには「お金を稼ぐ」ことが大切なのだ。

 

このブログを読んでいる方の中で出家を目指している人はそう多くはないはず。
ほとんどの方は出家のご予定はないと思うので、気兼ねせずにバリバリとお金を稼いで病気を予防してね。

仕事について考える 〜その5〜

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

「ダルマ」には「使命」という意味もある。

「使命」とはなんだろうか。

 

デジタル大辞泉によると

与えられた重大な務め。責任をもって果たさなければならない任務。

とある。

これは前回書いた「役割」に通ずる。

与えられた自分の役割や仕事を果たすことだ。

 

それから「使命」には

使者として受けた命令。使者としての務め。

という意味もある。

 

「使命」の原義は天の神の命令という意味であったそうだ。

神から授けられた「務め」が人にはあるらしい。

 

また、インドでは前世の行いが今世に影響するので、

前世の行為により今世で果たすべき「使命」があるという。

それを一生懸命にやることが「ダルマ」を果たすことである。

 

この「使命」の話をすると「自分の使命がわからない」というおっしゃる方が多い。

なかには自分の使命をわかっている人もいらっしゃるのだが、

アーユルヴェーダに辿り着く人は、

「自分がどうあるべきか」

「自分はなにをしたいのか」

「自分はいったいなんなのか」

というような生き方に迷いを抱えている方も多い。

 

まれに塾長にその答えを求めにいらっしゃる方もいて塾長も困ってしまう。

塾長は神様でも占い師でもないし前世もみえないので、

みなさんの「使命」がなんだかはわからない。

塾長に答えを求められても困るのだが、

少しでも「使命」をみつけるきっかけになれば、と今回書いている

 

まずは「使命」とは自分がやっていて不自然ではないこと。

例えば「人においしい食事を食べさせる」ということが使命の人は、

料理をしていることが苦痛ではなく、他人に食べさせることが苦痛でないこと。

気を付けたいのは、自分が「料理が使命だ」と思っていても、

自分のエゴを満足させている場合もある。

それは「使命」ではない。

例えば「人に喜んでもらうのが好きだから料理好きなんです。なので料理が私の使命です」という方もいるのだが、

人に喜んでもらえることで自分を満足させている場合もある。

自分が人に何かやってあげていることで、

自分の心の隙間をうめて満足している場合もある。

人に喜んでもらえると幸せなのは、

人に喜んでもらえなかったら不幸なのである。

料理は特に「おいしい」とか「また食べたい」とか言ってもらいやすく、

その人が満足しているかどうかがわかりやすいので自分が満足しやすいのだ。

自分が満足するために作っているのならば「おいしくない」「まずい」などと言われると腹がたったり、もう二度と作ってやるものか、となってしまう。

「使命」=「自分が満足すること」ではない。

たとえ「おいしくない」「まずい」と言われても作り続けることができること。

不自然でないことなので、やらないと自分が気持ち悪いことだ。

例えば、

トイレに行って手を洗うのは(たいてい)の人は自然の流れとして当たり前のようにやっている。

手を洗わないと気持ちが悪くてなんだか落ち着かない。

「使命」もトイレに行って手を洗わないと気持ちが悪いように、

やらないと気持ちがなんだ落ち着かないこと。

勘違いしてほしくないのは感情を持たないことではない。

一所懸命にご飯を作ったのに「まずい」と言われて腹が立たない人間などいない。

腹がたってもいいけど、そこにいつまでも執着せずに、

何を言われようがそれでも黙々と続けられることが「使命」なのかもしれない(成長は必要よ!いつまでもまずい料理を作り続けることとは別ね)

 

それから、たまに「これが私の使命です!!これで私が困っている人を救いたい!!」とやたらとアピールしている人も自分の満足だけで「使命」と勘違いしている場合もある。

自分の「使命」を知り、それにまい進できることはすばらしいことでもあるが、

自己満足と使命をはき違えてはいけない。

 

ノーベル医学賞や物理学賞などを受賞する人たちがいるが、

凡人の私達からみると「こういう人達が神から与えらた使命を持っている人なんだなぁ」と思いがちなんだけど、

意外とノーベル賞を取る人たちって「これが私の使命なんです!」って言っている人がいない。

「ただ子供ころから研究が好きだったから、

大学に入って研究室に入って研究していたらその延長にノーベル賞があった」という人。

「ただ子供のころから「なんで?」を追求していたらノーベル賞をもらった」って軽く言っている人がほとんどなのである。

研究することが自分にとって自然で、研究しないと気持ちが悪い、

わからないと気持ちが悪いから、わかるまで追求していった結果にノーベル賞がついてきただけなのだ。

あるノーベル賞受賞者はその研究が全世界の人たちのためになる研究なのに「世の中の役に立ちたいと思ったこと一度もない」って言いきっていた。

「使命」とは自分がやっていて自然であること。

そして、自分が意識しないところで世の中の役にたっていることなのかもしれない。

 

「私はノーベル賞をとるような研究もしていないし、人の役に立つことなんてできない。使命なんて私にはありません」と悲しいことを言う人がいる。

だれにでも使命はある。

この世のもの、動物、物質、目に見えようが、見えなかろうがすべてのものはなにかの役に立つようにできている。

例えば、太陽は地球に光を与え、熱を与え、生物を成長させる。

動物や植物は他の生き物に食べられることで他の生物に命を与え、

自然な死を迎えれば、骨や枯れた葉が新たな生物を生み出す大地を作る。

物だって人間の役に立つように作られている。

酸素だって眼には見えないけど、生物の命を支えている。

この世、宇宙のもの、なにもかもが何かの、誰かの役に立つように生まれている。

人間も自然の一部であり、宇宙の一部なので同じだ。

だから「自分だけ役にたつことがない。使命なんてない」なんて言われると、

本人は自分を劣った人としてみているのかもしれないけど、

塾長からしてみると「自分だけ特別」って言ってるように聞こえてしまう。

みんなに「使命」はある。

あなたにだけ「ない」なんてことはございませんよ。

 

子育て中のお母さんに「育児で手がいっぱいで、使命なんて果たしてないです」と言われたことがあるが、

子供を育てるの立派な「使命」

子供がいなくなると国は亡びるし、

子供が成長して働いてくれないと社会は成り立たない。

将来世の中の役に立つ子供を育てることも立派な「使命」だ。

 

「ただの事務員で世の中の役にたつような仕事なんてしていない」なんていう人もいる。

ただの事務員でも働いて税金を払い社会を支えているし、

勤めている会社の売っているものが世の中に必要だからその会社は成り立っている。

そこで働く人々を支えている事務員も立派に世の中の役に立っている。

 

「家と会社の往復だけで、仕事もやるにはやっているけどつまんないし、なんの使命も果たしてないし通勤電車の中でいつもそんなことを考えてしまう自分が嫌なんです」

という人もいるが、自分にはつまらない仕事でも、ノーベル賞をとっちゃうぐらい偉業でもなくても仕事をしていることは世の中に立派に役立っている。

細かいことを言えば、毎日、あなたが通勤で電車に乗ることで、鉄道会社の役に立っている。

鉄道会社はお客さんが電車に乗ってくれないと商売にならない。商売にならないと従業員は給料をもらえず生活に困る。人が乗らないと廃線になる場合だってある。廃線になったら露頭に迷う人がたくさんでてくる。

あなたが会社にいくために通勤電車に乗ることが世の中を支えているのだ。

ただ、自分が意識していないだけだ。

 

「使命」は特別なものでもなんでもない。

 

太陽が光を地球に与えるぞ!って思いながら燃えているのか?

豚がおいしいトンカツになるためにいい肉になるぞ!と思いながら生きているのか?

植物がいい土を作るぞ!と思いながら成長しているのか?

みんな自然のまま、自分があるべき姿であるだけだ。

 

自分があるべき姿でやるべきことをやり、日々一生懸命に生きていくこと。

それが天から与えらた「使命」なのかもしれない。

 

仕事について考える 〜その4〜

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

ダルマには「役割」という意味がある。

私達は何かしらの「役割」があり、それを一生懸命に果たすことが解脱の道であるといわれる。

 

インドでは身分や職業が生まれたときから決まっている。身分や職業の違いで不平不満がでないように自分の「役割」を果たすことで解脱、つまり最高の幸せを手に入れられるよ、とすることでうまく人々を掌握しているのだ。

 

では、日本人の私達に置き換えるとどうなるのか。

子供としての役割、親としての役割、会社での役割、親族間での役割、社会での役割、友達同士での役割...考えると一人で何役もの役割がある。みなさんも様々な役割をもっているのではないだろうか。

 

ヒンドゥー教聖典「ヴァガヴァッド・ギーター」では「幸と不幸、損と得、勝ち負けにこだわらず、ただ自分の役割を果たせ」という。それがダルマだという。

私たちは何かするときについついいろんなことを考えてしまう。「これをやったら褒められるかな?」「出世するかな?」「認められるかな?」「子供がいい学校に入ってくれるかな?」・・・などと結果を考えて行動してしまう。

そして、思うような結果が得られないと怒ったり、悲しんだりする。

この前も書いたが、怒りや悲しみはアーユルヴェーダでは病気だ。

怒りや悲しみという病気に犯されないためには、結果ではなく、今、目の前にあることに無心になってやることで防げる。

 

最近、世の中は「好きなことだけやって生きていけ」的な風潮だが「ダルマ=好きなこと」ではない。

 

「やるべきことをやる」のがダルマだ。

 

仕事で悩みを抱えている人は多い。

好きな仕事じゃない、仕事がつまらない、人間関係がうまくいかない・・・など、様々な悩みがある。塾長も会社勤めしていたので、皆さんの仕事の悩みがよくわかる。

「役割」は好きなことだけではない。

やりたくないこともたくさんある。

「私がなんでやるのよ!アイツの仕事だろうがっ!」って腹が立つことあるかもしれない。

でも、とりあえず文句も愚痴も横においておいて、結果もおいておいて、無心になって「自分がやるべきこと」をやってみてほしい。

解脱できるかはわからないけど、損とか得とか好きとか嫌いとか、自分の仕事、アイツの仕事など考えず無心にやってみると、達成感、満足感が得られこともあるし、見てないようで他人が自分の頑張りを見ていてくれていることもあったりする。

仕事について考える ~その3~

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

前回、人生の4大目的について簡単に説明した。

今回はそのなかの一つ「ダルマ」のお話。

 

ダルマ
法・道徳・倫理・役割・使命など
人は人生において、ルールや道徳を守りながら生きていかなければならない。

また、それぞれの人にはやるべき役割や使命があるのでそれらを果たさなければならない、ということ。

 

「仕事=働くこと」だけが仕事ではない。

法を守り道徳感や倫理観をもって生きることは私達の「仕事」でもある。

 

「法」というと日本の法律は約2000あるそうだ。

日本は他国からみると安全で平和で暮らしやすい国だ。

それは「法」があるから。

実際に法が整備されていない国は犯罪や紛争が多いしインフラも整っていない。

 

刑法がなければ殺人者や泥棒がうろうろしていて怖くて家から出れない。

道路交通法がなければ、家を出た瞬間に車にひき殺される。

建築法がなければ、いつ家が崩れるのかとヒヤヒヤしながら生活しなければならない。

消防法がなければ、あっちこっち火事だらけ。

鉄道、飛行機、バス、自動車に関する法律があるから自由に移動ができる。

労働基準法がなければブラック企業だらでみんな過労死まっしぐらだ。

医師法がなくて誰でも医師免許を持たずに治療ができたら怖くて病院なんていけない。

 

私達は「法」をあまり意識をせずに暮らしている。

けれど、自分も含め日本中の人々や企業や社会が「法」を守り、「法」に守られることで秩序が守られ安全で快適な暮らしができている。

「法=ダルマ」を守ることが私達の大切な「仕事」でもある。

 

でも、残念ながら「法」を守らないヤカラがいる。

殺人や泥棒がおきたり、過労死する人がでてきて悲しい思いをする人がいる。

アーユルヴェーダでは「悲しみ」も「病気」だ。

みんな「法」を守り正しく生きていれば「悲しみ」がない。

つまりみんな健康でいられるのだ。

 

「私は法なんて犯してないわ!」っていう人もいるだろう。

本当にそうだろうか。

 

車が通ってない横断歩道で「車が通ってないしぃ~急いでるしぃ~、まっ、いいかぁ~」って赤信号で渡っていないか?

どこかへ行くのにグーグルマップをみながら歩きスマホしていないか?

どちらも道路交通法違反だ。

 

会社で就業時間中にネットサーフィンしたり、トイレで同僚とおしゃべりしていないか?

それも就業規則違反だ。

 

今は連絡がすぐできる時代になったので、塾長もたまにやってしまうが「ごめ~ん、ちょっと遅れる~」なんて軽くライン一つですませてしまうが、約束の時間に遅れることも人間関係のなかでのルール違反だ。

 

家庭での「法」もある。

脱いだ服は洗濯機に入れる、食べたら流し台に食器をもっていく、なんてことも家庭での「法」を守ることだ。

 

自分に対しての法もあるだろう。

無駄遣いをしない、過食をしない、怒らない、なんて自分に対してのルールがある人もいるだろう。

 

罪に問われることはない「法」や「ルール」もたくさんある。

会社の就業規則や人としての付き合い方、家族がみんな快適に暮らすための「法」を守らず自由気ままにやっていていいのか。

自分に対しての「法」も守らず好きなだけ買い物をしたら破産するだろうし、好きなだけ食べたら病気になる、怒ってばかりいたら人がだれも寄ってこなくなる。

辛く寂しい人生になってしまう。それでよいのか。

 

道徳や倫理も守るべき「法(ダルマ)」だ。

なにかしてもらったら「ありがとう」

なにかやらかしたら「ごめんなさい」

なにかしてあげたのに「ありがとう」って言ってもらえなかったり、迷惑をかけられたのに「ごめんなさい」を言ってもらえないと腹が立つ。

「怒り」もアーユルヴェーダでは「病気」だ。

 

 アーユルヴェーダで悲しみや怒りを病気とするのは心が「ざわざわ」するからだ。

心の「ざわつき」が病気なのである。

法を犯したりルール違反をしたり、道徳や倫理を守らず相手に不快な思いをさせるのは、相手を病気にさせていることでもある。

そして、自分が法やルールを守らないことも心が「ざわつく」ことでもある。

このブログを読んでくださっているみなさんは常識人しかいないはずだ。

常識ある人はちょっとしたルール違反をすると心が「ざわつく」のだ。

ちょっとしたルール違反をして自分の心がざわつけば、自分で自分を病気にさせているのだ。

心が「ざわつかない」ようにするのはどうすればよいのか。

答えは簡単。

「法やルールを守る」それだけでよいのだ。

犯罪はもちろんしてはいけない。

たとえ車がこなくても信号無視をしない。

そのためには、時間に余裕をもって家を出ればいい。

どこか行くのにグーグルマップを見ながら行かなくてもいいように地図を頭に叩き込めばいい。

家でのルール、自分へのルールを守らず心がざわつくのであれば、やるべきことをやればいいのだ。

やるべきことをやるのが「仕事」だ。

 

法やルールを守ること。つまり「ダルマ」を守ることは「正しく生きること」であり「正しく生きること」は心の健康を守り、心の病気を防ぐことでもある。

アーユルヴェーダではこの心が「ざわつかない」ようにするために道徳的な守るべきことがたくさん説かれている。

犯罪やルールを守らないヤカラが多い時代でもあるが、アーユルヴェーダを実践するみなさんは「あの人も、この人もルールを守っていないわよ!」などと他人の指摘はまずは置いておいてほしい。

実は自分は気が付いていないだけでルール違反をしている場合がある。

自分は正しく生きているだろうか。犯罪は犯していなくとも、ちょっとしたルール違反を犯している場合もあるはずだ。

それを気が付かないことや自分を過信することは、犯罪を犯した人が「自分は悪くない、自分はなにも悪いことはしていない」というのと同じだ。

 

塾長は多々ルール違反をしている。。最近、やらかしたのは靴。

帰ってきたら靴は下駄箱にしまうのが我が家のルール。我が家の玄関は狭い。

しかも、ペットがいるので脱走防止用の柵まで設置しているので、靴を足しっぱなしにすると次の人が帰って来た時に柵に引っかかってしまい入るのに苦労する。

荷物をさばいたり、ペットに気を取られているとつい靴をしまい忘れる。

そして相方に指摘されるとムッとして言い返す。

ルール違反をしてるのは自分のくせに逆ギレだ。

その辺のヤカラとかわらないし「心が病気」なのだ。

そして「ダルマ」をはたしてないので解脱もできない。。

いろいろと残念な塾長なのである。。

 

話はそれたが、ダルマを果たし「解脱」することがアーユルヴェーダの究極の目的だ。

「法=ダルマ」を守ること「正しく生きること」が私達の「仕事」でもあるが、実はアーユルヴェーダの実践でもある。

これがなかなか難しい。

オイルうがいとかオイルマッサージ、舌掃除なんて実は楽なもんである。

ダルマを守り、心をざわつかせず「正しく生きること」の方がとっても難しい。

 

余談だが、以前とあるアーユルヴェーダの連続講座で「私、アーユルヴェーダ実践しています!」と豪語していてSNSでスパイス料理がどうのオイルがどのうとかアップしまくっている人がいたのだが、残念ながら遅刻の常習犯だった。。

この方が遅刻してくるたびに講師の話が止まり時間を奪われていった。

そのたびに講師も塾長もその他の生徒さんたちもイラっとさせられた。

本当にこの人はアーユルヴェーダを実践しているのだろうか…

まっ、そこでイラっとしている塾長もダメなんだけどね。。

 

次回もダルマの続きで「役割」について書こうと思っています。

 

 

 

 

仕事について考える ~その2~

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

前回、インドの仕事事情について書いたのだけど、

アーユルヴェーダのブログなのになぜに仕事の話なの?

と思った方もいるかもしれない。

 

実は、アーユルヴェーダの元祖教科書であるチャラカ・サンヒターには

仕事について触れている箇所がある。

 

例えば、

ダルマ・アルタ・カーマ・モークシャにとって健康はもっとも基礎になるもの、と言っている。この「ダルマ・アルタ・カーマ・モークシャ」というのはインド古来からの働くことの意味や生き方の一つの考え方で人生の4大目的(モークシャはダルマ・アルタ・カーマを行えば、結果モークシャとなるのでモークシャを含めず3大目的という場合もある)と言われている。

人生の目的を果たさなければ解脱ができない、ということである。インドの宗教、哲学、医学の最終目標は解脱なので、人生の4大目的を果たすためには健康でなければならない。つまり健康でなければ解脱ができない、と言っている。その解脱のために健康である方法を教えるのがアーユルヴェーダなのだ。

 

では「ダルマ・アルタ・カーマ・モークシャ」という言葉の意味をひとつずつ探ってみよう。(サンスクリットは一つの単語にたくさんの意味があるのでここでは簡単に訳します)

 

ダルマ

法・道徳・倫理・役割・使命など

人は人生において、ルールや道徳を守りながら生きていかなければならない。また、それぞれの人にはやるべき役割や使命があるので、それらを果たさなければならない、ということ。

 

アルタ

財を得ること、富を得ることなど

お金を稼いだり、富や財産を作り上げること。不正に稼いだお金や人の財産などを奪ってお金持ちになることではないよ。

 

カーマ

愛や願望を叶えること

愛する人と結ばれ子孫繁栄すること。自分のやりたいことをやること。

 

モークシャ

解脱

 ダルマ・アルタ・カーマを余計なことを考えず一生懸命に行えば解脱ができる。3つのうち一つでも欠けたり、欲望に負けたり、文句を言ったり、何も実行しなければ解脱はできない。

 

インドは前回でも書いたけど、生まれながらにして自分の仕事が決まっているので、自分のおかれた立場や仕事に文句など言わずに、自分のやるべきことをやらなくてはいけない、ということでもあるんだけど、この人生の4大目的を現代の私達の「仕事」という観点で考えたらどうなるのか書いていこうかな、と思ってます。

仕事について考える ~その1~

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

今回は「仕事」についてのお話。

 

インド人の仕事は、基本的に親の仕事を継ぐ世襲である。八百屋さんの家の子は八百屋さんになる。宗教儀式をする家の子は宗教儀式をすることが一生の仕事になる。トイレ掃除をする親の子はトイレ掃除をする人になる。死体を扱うのが仕事が親の子は、死体が嫌でも死体を扱う仕事をする。それがずっと何世代に渡って続いて行く。そういう社会のシステムなのだ。

現在はだいぶ変わってきたとは言え、まだまだ世襲制は根強く残っている。特に貧困層はほど酷い。裕福な人たちもいるけどインド全体でみたら、裕福な人の方が圧倒的に少ない。

日本にも世襲は残ってはいるがインドほど酷くはない。親の仕事を継がない人もたくさんいる。

ありがたいことに「職業選択の自由」は日本国憲法でも守られている。

嫌でも親の仕事を継がなければならない人もいるかもしれないけど、ほとんどの人が今の仕事を「自分の意思」で決めている。

それでも、アレコレ不満を言う人がいる。

給料が少ない、仕事が終わらない、雑用ばっかり、楽しくない、上司が無能、部下が働かない、同僚がムカつく、、、

実は塾長もそうだった。どちらかと言うと、かなり不平不満を言っていた方だと思う。

でも、アーユルヴェーダを学び始め、インドの事を調べはじめ、インドの職業事情を知って仕事に文句を言うのをやめた。インドの過酷な労働環境に比べたら文句を言っている自分が情けなくなった。しかも、自分が選んだ仕事なのに、、、

 

仕事を自分で選択できる環境

安全に仕事ができる環境

法に守られて働ける環境

 

日本では当たり前のことだけど、実はとても幸せなこと。

 

今、仕事に悩んでいる人。

下記の動画や記事を読んで。そして、今の自分の状況と比べてみてみたら?

 

https://youtu.be/_BZNK1dE-Ao

 

http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/17/072100174/?ST=m_photostories

アーユルヴェーダを理解するには努力と根性!?

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

アーユルヴェーダを学びたい、という方に「なぜアーユルヴェーダを勉強しようと思ったの?」と質問すると「アーユルヴェーダの単発の講座に行ったけどよくわからなかったから」「アーユルヴェーダのスクールに通ったけど、わかったような、わからないよう感じでモヤモヤする」「今、アーユルヴェーダを勉強しているけど何をやっているかさっぱりわからない」というような声をよく聞く。

 

残念ながらアーユルヴェーダは「医学」なので単発の講座や短い期間勉強しても理解することはできない。現代医学だってセミナーや学会に行ったからって医学をすべて理解し病気が治るわけではない。医学用語の知識も必要だし体の仕組みや病気や薬の知識があってこそ理解できる。

 

特にアーユルヴェーダは私たち日本人が持っていないインドの文化や考え方が多く含まれている。言葉も私たちが使わない言葉もたくさんでてくる。その言葉の意味や身体にどう関係するのかを知っていなければ理解できない。

 

近頃「アーユルヴェーダって何?」「アーユルヴェーダって何をするの?」という疑問の答えをその場ですぐに答えを求めたがる人が多い。はっきり言ってそれは無理。例えば「アーユルヴェーダはドーシャをバランスさせて・・・」なんて説明をすれば「ドーシャって何?」って話になる。「ドーシャっての体のなかに流れているエネルギーで、ヴァータ・ピッタ・カパがあって、どうたらこうたら・・・」という話になるし。ドーシャを詳しく説明するにはインド哲学も必要になる。「アーユルヴェーダの究極の目的は「解脱」です」といえば「解脱って何」ってことになる。そうなると宗教観の話もしなくてはならない。その人の知識レベルによってもかわるけど一言でなんて説明できるものではない。

 

アーユルヴェーダを理解したければ、幅広い知識が必要になってくる。勉強がはっきり言って必要!アーユルヴェーダに限らずサンスクリット、ヨーガもインド哲学もそう。インドモノは一日では理解できないし一言で言い表すこともできない。

 

「じゃ、どれぐらい勉強すれば理解できるのか?」と聞きたい人もいるよね。

愕然とするかもしれないが「一生勉強」としか言えない。本気でアーユルヴェーダサンスクリット、ヨーガや哲学を勉強している人に聞いてみると多分同じことを言うと思う。何十年と研究している大学の教授レベルの人でも「完全に理解できていない。まだまだ勉強中」って平気でいう。

 

アーユルヴェーダの元祖教科書のチャラカサンヒターにはこう書いてある。

アーユルヴェーダはこの宇宙を作った最高の神が作った。知識が乏しい人間ではとても理解ができない」とある。私達のような普通の人間の頭レベルではとうてい理解しきれないものなのだ。

 

先日、師匠に「アーユルヴェーダサンスクリットも哲学も一生かかっても理解するのは私の頭では無理!」と弱音を吐いたところ師匠から「勉強し続ければ来世は今世で勉強が終わった所からスタートするから努力し続けろ」とよくわからない慰めの言葉をもらった。それぐらい気が長い話なのだ。

 

でも、理解しょうと努力し続けることで、わからなかったことが少しずつわかってきて楽しくなる(全然わからない時もあるけどね)はっきり言って、講座で講師の話をただ聞いてるだけでは理解できない。自分から知識を積極的に求めないことには知識はやってこない。ホント努力が必要。

 

ヨーガも最初はできないポーズがあったり、インストラクターのようにしなやかな動きはできない。たまにヨガスタジオで体を動かしているだけでは何も変化しない。でも、毎日毎日、家でもコツコツと続けていれば身体が変化してくる。気が付けばできなかったポーズができるようになっていたりする。

 

続けることは根性がいる。できない日もある、やりたくない日もある、体調が悪い日もある。できない日は無理はしてはいけない。無理をすると続けられない。途中でお休みがはいってもいいと思う。でも、途中間が空いても細々でもいいから続けて投げ出さないことが大切。

 

続けていると必ずやアーユルヴェーダやインドモノは何かを与えてくれる。ヨーガなら柔軟な身体かもしれない、ストレスの解消かもしれない、アーユルヴェーダなら健康な身体かもしれない。直接的なことじゃないかもしれない。変化は人によってちがう。塾長なんてただの事務のおばちゃんだったのが、仕事をやめてアーユルヴェーダや好きなインドの話をペラペラとしゃっべっているだけなのに、ありがたいことにお金をもらっている。それも大きな変化だ。

 

逆に努力と続ける根性がなければ何も変化しない。勘違いしている人も多いがアーユルヴェーダの講座に行ったから人生が変わるわけではない。健康になるわけでもない。努力して続ける根性があった人だけに変化が与えられる。

 

でも、これってアーユルヴェーダにしろインドモノだけに限らない。仕事だって同じ。健康だってなんだって同じ。入社したての頃は何もわからないけど、毎日、努力して続けることで、いろんな会社のことや仕事のことがわかってくる。健康も一日だけ健康的に暮らしても健康にはならない。毎日の食事や生活習慣に気を付ける努力をし継続していくことで健康になる。

 

今、アーユルヴェーダやヨーガ、サンスクリット、哲学などを学んでいて「わからない!」って苦しんでいる方、そして、インドモノ以外のことで苦しんでいる方、苦しんだ先に何かがあるからあきらめず投げ出さずにがんばって続けていって欲しいと願っている。

 

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