アーユルヴェーダ塾ジュニャーナ塾長日記

アーユルヴェーダについて学ぶアーユルヴェーダ塾ジュニャーナを主催している「塾長」が古典書にもとづいたアーユルヴェーダのお話を日々綴っています。

「いい加減」ではなく「良い加減」で生きる

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

「いい加減」と言う言葉は、一般的にはあまり良いイメージがない。

「いい加減なことばかり言う人だ」

「いい加減な仕事をする人だ」

「いい加減な生活」

など

中途半端、無責任、適当など、キチンとしていない、だらしないという感じがする。

 

実は、「いい加減」にはもう一つ意味がある。

適度、ほどほど、偏りがなく変化がないこと、ちょうど良い具合という「良い加減」である。

 

アーユルヴェーダでは「中庸(ちゅうよう)を心がけよ」と言われる。

「極端に多すぎることは少なすぎることと同じくらいによくない」という意味である。

つまり

テキトーでもなく、やり過ぎでもなく「良い加減」でいなさいよ、と言うこと。

 

寝すぎ、食べ過ぎ、働かない、ダラダラし過ぎることなどは、カパの悪化、タマスの増加を引き起こす。

逆に

寝ない、食べない、働き過ぎることなどは、ヴァータの悪化やラジャスの増加を引き起こす。

 

また、一般的に「良いこと」とされていることでも、やり過ぎは病気を発症させる。

例えば、運動不足は病気を引き起こすことは誰でも知っている。

しかし

運動はやり過ぎるとヴァータやピッタの悪化やラジャスの増加を引き起こす。

普段、運動していないお父さんが子供の運動会で「張り切り過ぎて」アキレス腱をやってしまうのは「過ぎる」ことによる失敗だ。

ケガを病気というかどうかは別として、ケガをして働けなくなり、収入がなくなり、不安やお金がないストレスで病気になる可能性がある。

 

食べ物やハーブ、薬の摂取も同じだ。

食べ物やハーブ、薬は元気を与えてくれたり、病気を治してくれる。

薬はきちんと飲まなければ病気は治らないが、飲み過ぎれば、胃や肝臓に負担がかかるし薬物中毒や副作用の危険性がある。

ハーブは体に良いものだ。

しかし、いくら体に良いハーブでも飲み過ぎはよくない。

塾長は、とあるハーブを飲んでいる。

飲むと元気が出るし、ちょうど良い量だと快便になる。

快便だと心身ともに気持ちがスッキリする。

ただし、飲み過ぎたり、飲むのが夜遅すぎると下痢をしたり、まったく眠れなくなり寝不足になり逆に疲れてしまう。

飲まないと効果がなく、飲み過ぎると逆効果になる。

その日の体調や時間などから、ちょうどいい加減をみつけて、ちょうど良い量を飲むのが一番効果的である。

 

「〜過ぎること」

反対に

「〜しないこと」

は病気を発症させる。

 

また、「〜過ぎること」は欲望をうむ。

楽しみ過ぎることもアーユルヴェーダでは良くない、とされる。

またやりたい、もっともっと、となり、欲望になる。

麻薬がわかりやすい。

一瞬の快楽のために、麻薬をやめられなくなり、体も心も含め、社会的信用、家族や友人など全てを失う。

しかし

なんの感情を持たないことではない。

相手を思いやる心、優しい心をもつことはサットヴァを増やす。

「〜しないこと」は、ダルマ、アルタ、カーマを果たせない。

つまり、究極の幸福である解脱ができない。

 

食べる、飲む、寝る、働く、運動、楽しむ、悲しむ、怒る、こだわり...などなど

生きることあらゆる肉体的、精神活動において

「いい加減」

ではなく

「良い加減」

で生きることがアーユルヴェーダの実践である。

 

自分に聞いて欲しい。

今のあなたは、

なにかをやり過ぎていないか?

もしくは

やるべきことをやらないでいないか?

「いい加減」ではなく「良い加減」で生きているか?

 

《お詫びとお知らせ》個人向け講座に関して

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

現在、塾長の個人向け講座の新規の募集は致しておりません。

(※現在、受講中の方、以前に受講されことがある方は引き続きお受けしております)

 

現在受講されている方の希望、家庭の事情等により日程の調整が厳しくなっているため、新規の受講希望の方はお断りさせていただている状態です。

受講希望のご連絡をいただいた方、再開を希望されている方には心の底から申し訳なく思っております。

本当にごめんなさい。

 

代替案として、8月か9月頃にどこか場所を借りて1日講座のような形で皆様にお会いできる機会を設けようかと考えています。

場所は、神奈川県横浜市か千葉県松戸市周辺を考えております。

(近郊ではない方はごめんなさい。。)

 

何をやるかは正直に言うと何も確定していないのですが、

アーユルヴェーダは奥も深いですが、幅も広くインドの様々な要素が含まれていています。

そのため、初めてアーユルヴェーダを勉強する方は、なかなかアーユルヴェーダの全体像をつかむことができません。

現在進行形でアーユルヴェーダを勉強していてもアーユルヴェーダの奥深さや幅の広さをつかむことができない場合もあります。

日本でのアーユルヴェーダの学習は幅が広く、奥が深いアーユルヴェーダのごく一部分に特化されてしまっていることが多く、勉強していてもなかなかアーユルヴェーダの奥深さや幅の広さを把握することが難しいのが現状です。

アーユルヴェーダの成り立ちやアーユルヴェーダの土台となっているインド思想なども含めながらアーユルヴェーダとはいったいどういうものなのか全体像を把握できる講座にしょうかな、と思っています。

 

アーユルヴェーダは奥が深く、幅も広いので、とにかく勉強すべきことがたくさんあります。

そのため、アーユルヴェーダに興味をせっかくもったのに勉強することがたくさんありすぎで、自分が何を勉強したいのかわからなくなってしまう方もいます。

また、アーユルヴェーダの一部分だけを勉強してもアーユルヴェーダの全てを理解できないので、何かモヤモヤとした感じが残る方やアーユルヴェーダの良さを感じられずにアーユルヴェーダを途中でやめてしまう方もいます。

アーユルヴェーダは人間が生きて死ぬまでの大切ことをたくさん教えてくれます。

それは、ただ肉体的な健康になるだけのことだけではありません。

「生きて行くための叡智」がつまっている学問です。

私たちの人生は毎日ハッピーなわけではありません。

肉体的、精神的に辛いこと、苦しいがことたくさんあります。

でも、アーユルヴェーダを学び、実践することで、肉体的、精神的苦しさから救われることがたくさんあります。

ですので、わからないままでいること、途中でやめてしまうことは、

非常にもったいないと思っています。

アーユルヴェーダの全体像がつかめると、自分はアーユルヴェーダのどの部分を特に知りたいのか、自分がつきつめたてやりたいことは何なのか、というのが見えてきます。

アーユルヴェーダを勉強しつつも何か迷いがある方、イマイチ、アーユルヴェーダって何なのかわからない、という方向けの講座にしょうと考えおります。

もちろん、アーユルヴェーダをまったく勉強したことがない方、これからアーユルヴェーダの始めよう、と考えている方にも意義がある講座にしょうかと思っています。

もちろん、塾長の講座を修了された方、現在受講中の方も復習を兼ねて参加可能です。

具体的に日時、内容、場所が決まり次第、またブログでご連絡いたします。

もうしばらくお待ちください。

 

ご質問等がありましたら、ブログコメント欄もしくは下記メールアドレスまでご連絡ください。

ayurvedacramschooljunana@yahoo.co.jp

 

コメント欄でお問い合わせいただいた方は、

返信用のメールアドレスをご記載いただければメールで返信いたします(お名前、メールアドレス等の個人情報が記載されているコメントは承認せず非公開にいたします)

個人情報等がないコメントにつきましては、承認後、コメント欄にて返信いたします(コメント内容は公開されますのでご了承ください)

 

儀式からアーユルヴェーダを考える

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

日本では「令和」という新しい時代が始まった。
天皇陛下の退位や即位の様々な儀式をテレビで観ていた。
静かに粛々と進められる儀式は美しいなぁ、と思ったりしていた。

また、平成を無事過ごせたお礼と令和が良き時代になるよう関東のお伊勢様といわれる伊勢山皇大神宮に参拝をし、世界の人々、自分と家族が安泰にすごせるようお寺で護摩焚きを行ってきた。

儀式や護摩焚きをみていて思ったことがある。
アーユルヴェーダの元となるヴェーダは、神を讃える儀式の際に詠われる賛歌であったり、儀式の手順であったり、病気の治癒や様々な願いを叶えるための儀式の際に詠われる詠歌集である(護摩焚きもインドの儀式であるホーマが由来である)

そして、このヴェーダからアーユルヴェーダを始め、インドの宗教、思想、文化、芸術、文学など様々なものが生まれ、現代にも脈々と続いている。
そのため、インドでは昔も今も儀式が非常に重要である。

現代でも寺院で行われる神を讃える様々な儀式があり、結婚、子供の成長を願う儀式など人生の節目に行う儀式もたくさんあり、先祖を供養する儀式もある。
また、家庭でも祭壇があり、祭壇に水や食べ物を供え、祈りを捧げる。
これも一つの儀式である。
インドは儀式が生活の一部である。

そう考えると、アーユルヴェーダも儀式と切り離すことはできないはずである。
チャラカ・サンヒターでも病気の治療には2種類あるとされ「理にかなった治療」と「神に依存する治療」である、とはっきり書かれている。
「神に依存する治療」は儀式を行うことでもある。

そう言えば、塾長がアーユルヴェーダの学校で学んでいる時のトリートメントの授業の際に、マントラを唱えさせられた。
そして、自分や施術される人の「気」を整える決まったやり方があった。
当時は「なんでこんなことするのか?」と思いつつ言われるがままやっていたが、今思えば、トリートメントでよい結果を出すための儀式であったのかもしれない。

また、アーユルヴェーダでは、私たちの身体にはドーシャといわれるヴァータ・ピッタ・カパという3つのエネルギーが流れていて、そのドーシャが身体を維持していると考える。

ドーシャは空・風・火・水・土でできている。

インドでは空・風・火・水・土は、それぞれ神様がいる。
古代インド人は、力をもつ自然現象を神とし、その神たちが穏やかでいてくれることを願った。
神々が穏やかに調和していることで私達の生活は脅かされることはなく、自然の恩恵を受けて快適に生きていけるのだが、自然の神々が暴れると強風や火事や大雨や洪水、干ばつなどが起き、自分達の生死にかかわるようなことが起きると考えた。
そのため神々が暴れないように、供物や賛歌や祈りを捧げ様々な儀式を行った。

アーユルヴェーダではその自然の神たちが私達人間の身体のなかにいる、と考え
ヴァータ(空+風)
ピッタ (火+水)
カパ  (水+土)
というドーシャになったと考えることができる。

私たちの身体のなかにいる空・風・火・水・土という神々が穏やかに調和してくれることで、私たちの身体が健康でいられるのだ。


食べ物や飲み物は身体の中の神々にお供えする供物。
オイルマッサージやうがいは身体の中にいる神々に行う儀式。
ヨーガや瞑想も身体の中にいる神々に行う儀式であろう。
そう考えると変なものを食べたり飲んだり、マッサージをやったりやらなかったり、適当にやったりすれば、神様がお怒りになり、身体の中で暴れてしまうであろう。
つまりドーシャが乱れ病気になる、と考えることはできないだろうか。
健康であるためには、身体の中の5人の神様に常にご機嫌よくいてもらう必要がある。
さらに言えば、人によって5人の神様の中でも特に暴れやすい神がいて、
それが体質と考えることもできる。
暴れやすい神様には特に気を配ることが必要である。
それが自分の体質には特に気つけるべき、ということにつながる。
ただし、一人の神様ばかりに気をとられていると他の神様のご機嫌を損ねることがある。
それが、カパ体質でもヴァータやピッタの病気になるということにもつながる。

 

アーユルヴェーダが薦める様々なことは、身体の中の空・風・火・水・土という5人の神々にご機嫌よくいてもらうことであり、健康という最大の恩恵を受けるために行う儀式なのかもしれない。

アーユルヴェーダの実践にはめんどくさいことも多いが、儀式と思って粛々と淡々とやればいいのかもしれない。
神様=(イコール)自分(梵我一如)もインドの考え方でもある。

 

神様が歓ぶこととは何であるのか?
神様がお怒りになることはどんなことであるのか?
そんなふうに考えると、アーユルヴェーダを理解すること、実践することに意味を感じる。

 

 

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アーユルヴェーダに生活を寄せる

こんちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

 

アーユルヴェーダは「肉体的・精神的に正しく毎日を生きること」である。

正しく生きた一日一日を積み重ねた結果、よい一生、よい人生を作り上げる。

それがアーユルヴェーダの目的の一つでもある。

そのため、アーユルヴェーダは「肉体的・精神的に毎日を正しく生き、よい一生を作るため」に守らなければならない「ルール」がたくさんある。

厳しいことを言うが簡単にはよい一生を作ることなんできない。

たまにオイルトリートメントやパンチャカルマをやっただけでは、よい一生は作れないし(これらはよい一生を作るごく一部にしかすぎない)、

アーユルヴェーダを勉強しただけでもよい一生は作れない。

アーユルヴェーダがいうことを「理解する理解力」

「実践する行動力」

「努力」

「忍耐力」

「自制心」

が必要になってくる。

 

ダルマ(役割)・アルタ(お金を稼ぐ)・カーマ(愛・願望を叶える)を果たすこと

食事のルール

一日のうちでやらなければらないこと

季節の過ごし方

我慢してはいけないこと

我慢しなければならないこと

捨てなければならないこと・・・等々

肉体的・精神的に「やらなければならないこと」「やってはいけないこと」が、

これでもかってぐらいたくさんある。

しかし「アレしてください、コレしてください、アレはやってはダメ」と言うとたいていの方は「えー、できない!無理!」とおっしゃる。

例えば、

日の出の96分前に起床

沐浴

オイルマッサージ

歯磨き

瞑想

食事(食事は規則正しく、バランスよく適量に)

昼間は働き

夕方に瞑想

翌朝起きる時間からさかのぼって8-9時間前には寝る(今なら20時-21時ぐらい)

・・・・などなど

これは、基本的なごく一部。

 

朝は起きられない

食事は食べたり食べなかったり

ギリギリに起きるから、瞑想なんてやってられない

夕方も仕事があるので瞑想なんてできない

帰りが遅いからさっさとなんて寝れない

自分の時間がない

・・・とアレヤコレヤとできない理由を並べられてしまう。

できないことは、よくわかります!!

塾長だって仙人じゃあるまいし、ほぼできていない。

確かに、現代社会においてアーユルヴェーダの言う生活法を実践することはかなり難しい。

しかし、間違えて欲しくないのだが、アーユルヴェーダが難しいのではない。

アーユルヴェーダが言っていることは、人が「肉体的・精神的に健康的に生きるため」にごくごく「当たり前」のことを言っている。

アーユルヴェーダがいう「当たり前」のことを「当たり前」にできない現代の方がおかしい。

 

日の出とともに働き、日が沈んだら寝る

自分の心をみつめたり、自然に感謝する時間をもつ

食事も規則正しく、食べないこともなく、食べすぎることもなく適量を食べる

そして、生活のために仕事をする

それが人としても生物としても当たり前の生活ではないか。

 

「できない」というおっしゃる方に言いたい。

「当たり前のことが当たり前にできないことの方がおかしい」ことに気が付いてほしい。

だから、肉体的、精神的病気に侵されるのだ。

 

誤解していただきないように言うが、みなさん生活や事情があるので仕事をやめろということではない。

みなさんががんばって働き、夜間にお仕事をしていただいている方もいるから、

私達は安全で快適に暮らせている。

そして、働くことがダルマ・アルタ・カーマを果たすことでもある。

ただ、現代的な生活にアーユルヴェーダを寄せると無理が生じる。

毎晩、寝るのが12時過ぎているのに日の出の96分前に起き続けたら、

身体を壊してしまう。

会議中に瞑想していたらクビになってしまう(瞑想したくなるくだらない会議もあるが・・・)

今の自分の生活にアーユルヴェーダを寄せるのではなく、

アーユルヴェーダがいう生活になるたけ自分の生活を寄せて行って欲しい。

早く帰宅して早く寝るために、仕事に無駄がないか

自分の能力や体力にあっている仕事なのかどうか

テレビやスマホをみて無駄な時間を過ごしていないか

通勤電車の中でスマホをいじくりまわすなら瞑想することもできる

お金に不安があるなら、スマホをいじくる時間にスキルアップするための勉強もできるかもしれない

 

その他にも自分の精神面の見直しも必要だ。

欲望

執着

不安

増悪

喜楽

悲しみ

苦しみ

虚栄

見栄

依存

無知・・・

そういうマイナスなもので自分の心が侵されてしまっていないか。

そして、欲望のままに買い物をしたり、食べまくったり、憎悪や不安のストレスから逃れるためにお金を使い、無理して働かないといけない状況ではないのか。

アーユルヴェーダにしろヨーガにしろ「あいつが悪い」「会社が悪い」「社会が悪い」などの他者は関係ない。

今の自分の状況は全て自分がやった行為(カルマ)の結果でしかない。

 

そして、知性、意志力、非暴力、忍耐、正直、自制心・・・

などの正しいことを失っていないかどうかも思い返してほしい。

 

 

自分の生活や心を見直すことで、アーユルヴェーダが教える正しい一日を積み重ねられるようになる。

そして、よい人生、よい一生が作られていく。

 

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とり入れるべきもの、すてるべきもの

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

アーユルヴェーダでは「とり入れるもの」と「すてるもの」がある。

 

肉体を維持するためには、栄養をとりいれなければならない。

ドーシャ(ヴァータ・ピッタ・カパ)をバランスし、

アグニ(消化力・代謝力)をよくするには、

積極的にとり入れるべき食べ物

逆に、すてた方がよい食べ物

(廃棄することではなく、食べるのをやめた方がいいということ) 

がある。

 

「とり入れるべきもの」「すてるべきもの」は、食べ物だけに限らない。 

病気を治療するための

ハーブの飲用、オイルマッサージやシローダーラといった技術はとり入れるべきもの

アーマ(未消化物)や過剰になったドーシャはすてるべきもの

 

とり入れるべき良い習慣

すてるべき悪い習慣

もある。

アーユルヴェーダの日常生活法や季節の過ごし方は、とり入れるべき良い習慣だ。

良い習慣の反対のことは、すてるべき悪い習慣である。

 

さらには、

とりいれるべき「知識」

すてるべき「無知」

がある。

 

とり入れるべき「知識」は聖典の学習と一般的な知識である。

すてるべき「無知」は、欲望、執着、怒り、悲哀、怠惰、快楽・・・等々

「知識」は「無知」をなくし、健康にもよいし解脱への道である。

「無知」は病気を引き起こし、オージャスという人間の生命力を奪い、

輪廻の渦に巻き込まれる。

 

実は、この「とり入れるべき知識」と「すてるべき無知」が一番難しい。

食べ物や習慣は、実は自分でコントロールできる。

アーユルヴェーダを始めると、最初につまずくのが食事で、

○○体質は✖✖を食べた方が良い、とか、△△は食べたらいけない、

などという言葉に踊らされて、自分が何を食べたらよいかわからなくなってしまう。

しかし「とり入れるべき知識」と「すてるべき無知」ができていれば、

食べ物や習慣は自身で簡単にコントロールできるようになる。

 

「とり入れるべき知識」は終わりがない。

私達は、この世にあるすべての知識を身に着けることなんて絶対にできない。

一般的な知識は、私たちが小学校、中学、高校、大学で学ぶこともそうだし、

仕事のやりかた、生き方、人間関係、道徳、倫理・・・ありとあらゆる知識である。

一般的な知識でさえ、この世にある全てを理解することなぞできない。

でも、少しでも多くのこの世にある知識を得るために一生勉強し続けなければならない。

 

そして、聖典の知識は「神の知識」である。

アーユルヴェーダもこちらにはいる)

「神の知識」を理解することなんて簡単にできやしない。

アーユルヴェーダでさえ、チャラカ・サンヒターを読んだだけで理解できるものではない。

アーユルヴェーダは、聖なる知識としてサンスクリットヴェーダの知識も必要であるし、現代医学、現代解剖学、現代栄養学、植物学、自然科学、インドの文化、歴史などの一般的な知識と両方が必要である。

アーユルヴェーダを理解するには幅広い知識が必要になる。

 

そして、最も難しいのは「すてるべき無知」である。

欲望、執着、怒り、悲哀、怠惰、快楽・・・等々

こいつらが、なかなかすてることができない厄介なものだ。

人から良く見られたい

完璧な自分でありたい

愛されたい

幸せになりた

あの人に認められたい

お金が欲しい

良い暮らしがしたい

あれが食べたい

あれもこれも欲しい

めんどくさいからやりたくない

私は間違っていない

有名になりたい

あいつが嫌い

あいつのせいでダメなんだ

あいつがムカつく・・・

自分が「無知」であることに気がついていないという「無知」もある。

病気の方には大変申し訳ないのだが、病気になることも「無知」である。

病気にはかならず原因がある。

病気になる原因は「無知」から起こる。

病気はドーシャ(ヴァータ・ピッタ・カパ)のアンバランスから起きるが、

ドーシャをアンバランスにさせるのは自身の「無知」である。

 症状は薬などによって一時的に治めることはできるかもしれないが、

「無知」をすてない限り再び同じ病気になる。

もしくは、もっと酷い病気になる可能性がある。

 

「無知」をすてるのは「知識」である。

一般的な知識も必要だが「聖典の知識」と両方が「無知」を治す唯一の薬だ。

しかし、聖典を読んだだけでは「無知」は治らない。

チャラカ・サンヒターやバガヴァッド・ギータや聖書や仏典を読んだだけでは「無知」はなくならない。

聖典を読み「自分の無知に自分自身で気がつかなければならない」

 

そして、その「自分の無知を自分自身ですてなければならない」

他人の力ではどうにもならない。

それには、自分の心、過去のトラウマ、コンプレックスなどの自分のダメな部分に真正面から向き合わなければならない。

自分の触れられたくない部分にふれることにもなる。

それは、辛くて苦しい。

受け入れたくないこともたくさんあるだろう。

しかし「受け入れられないことも無知」である。

 

「無知」はなぜすてるのが難しいのか。

それは「無知」にしがみついていることは「楽」だから。

前にブログでも書いたが、たとえば、病気になった方で、治す気がない方がいる。

なぜなら、病気でいることが楽な場合がある。

聖なる知識の一つとして、人にはダルマ・アルタ・カーマという人が一生のうちにやらなければならない課題があるのだが、病気はこれらを果たすことを邪魔する要因になりやすい。

誤解しないでいただきたいのだが、

病気だとダルマ・アルタ・カーマを果たすことができない、ということではなく、

病気でも十分できるのだが、病気を言い訳にしてやるべきことをやらない、となりやすいのである。

やるべきことをやらないのも「無知」である。

また、「無知」にしがみついていることは、それはそれは楽だし楽しい。

塾長はいつも「怠惰」という無知にまけてグータラ生活を楽しんでしまい、やめられない。

「無知」のかたまりのような人間である。。

偉そうなことをブログで書いていながら、まったくできていない。

自分の「戒め」のために今このブログを書いている。

 

 あなたは何を取り入れて、何をすてますか?

 

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敵に囲まれている

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

インフルエンザや風邪が流行っている。

インフルエンザや風邪は、罹ってしまうと日常生活にいろいろと支障がでる。

寝込んでしまうとダルマ(役割)・アルタ(お金を稼ぐこと)・カーマ(愛・願望を叶えること)を果たすことができない。

仕事を休めば、仕事場での役割を果たせずお金も稼げない。

やりたいことがあっても高熱でうなされている時にやりたいことなんてできない。

 

塾長はインフルエンザには人生で一度も罹ったことがなく風邪もほとんど引かない。

「なにかアーユルヴェーダ的なことをしているのですか?」と聞かれることが多いのだが、

特別なことは何もしていない。

 

しいて言うなら、アーユルヴェーダうんぬん関係なく

手洗い

うがい

食事

睡眠

喉が乾燥しないようにこまめに水分をとる

と言った一般的に言われていることをしているぐらい。

別に意識もしていない。

 

 それから、ストレスがたまるとイライラしてジャンクフードやお菓子を食べたくなったり、

眠れなくなって睡眠不足になり体力、免疫力が落ちるので、

あまりストレスをためないようにはしている。

ストレスが自分の最大の「弱点」だと自覚がある。

その「弱点」がでないようなるたけコントロールしている。

できないことも多々あるが。。

「弱点」は人によってちがう。

不規則な生活をすると風邪を引く人、休みがないと体調が悪くなる人、寝すぎると体調が悪くなる人・・・

と人それぞれ不調になる原因はちがう。

その目安となるのがアーユルヴェーダの体質診断でもある。

自分の体質を知り、自分の肉体的・精神的「弱点」がでないよう注意しながら生活するのがアーユルヴェーダである。

 

それから、インフルエンザや風邪が流行っているから気を付けるのではなく、

流行っていなくても年がら年中、常に気を付けることが病気を防ぐ。

健康や丈夫な体は一日ではできない。

一日一日の積み重ねである。

 

とは言っても、

インフルエンザや風邪に罹らないように予防接種をしたり、

気を付けていたのに今年は罹りました!

ウィルスが強くなったから罹っても仕方がない!

という方もいるだろう。

厳しい言い方だが、

それは「気を付け方が不足していた」

もしくは

「気を付け方が間違っていた」ということ。

アーユルヴェーダでは「良い結果には良い原因があり」「悪い結果には悪い原因ある」とされる。

インフルエンザや風邪に罹ったという「悪い結果」には「悪い原因」があるということだ。

何か予防法が間違っていたのかもしれないし、対策が不足していたのかもしれない。

「私のやり方は間違ってない!」と言いたくなる方もいるだろうが、

「私は間違ってない」その考え方が原因である。

自分の思うような結果が出なかった時に「自分のやり方の何がダメだったのか」と見つめなおすことができるかどうかで結果は変わる。

よく「こんなにアーユルヴェーダで言われていることをやっているのに、

一向に体調がよくなりません」と頑なに言われる方がいるのだが、

「私はこんなにがんばっているのに!」と言いたいのだろうが、

結果が伴わないというのは「結果の伴わない原因がある」ということ。

だからと言って自分はダメ人間なんだ、と自分を責める必要もない。

「何が間違っていたのかなぁ」とただ原因を探り、改善すれば良いだけの話だ。

 

 ウィルスは生き物なので耐性もついて年々強くなっているだろう。

そして、人と人との接触が多い現代人は感染症にかかりやすい。

古代は人の往来が少なかったので、

現代より感染症が少なかったとも言われている。

自分の「弱点」を知ったり、現代的なことも考えも取り入れて感染しないようにより注意をはらわないといけない。

 

チャラカ・サンヒターに素晴らしい言葉ある。

自己を知る人は、自分がいつも敵に囲まれているようであることを知り、常に用心して不動の長寿を望みつつ、行動すべきである。

(チャラカ・サンヒター/第1巻/17章.119)

 

私たちは、ウィルスという敵、ストレスという敵、食べ物、生活のリズムや五感を壊すスマホやテレビ、欲望や怒り・・・等々と言った、自分を滅ぼそうとするたくさんの敵に囲まれている。

戦に強い武将が敵に負けないように堅固な城壁や城、たくさんの武器や戦略を持つのと同じように、

私たちも病気という敵に負けないために「堅固な肉体」と「知識」という多くの武器や戦略を持たなければ敵には勝てない。

 

自分の肉体は自分でしか守れない。

 

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インド映画とインド哲学 その2

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

今回のおススメは「バジュランギおじさんと、小さな迷子」

ざっくりあらすじ(詳しいあらすじは、公式ホームページへ)

bajrangi.jp

 

パキスタン人でイスラム教徒の口がきけないシャヒーダーが、母親とはぐれてインドに迷い込んでしまう。

インド人でヒンドゥー教徒ハヌマーン神の熱狂的信者のパワン(あだ名がバジュランギ)が、迷子の彼女を助け、彼女の親が住むパキスタンへインドから連れて帰ってあげるお話。

その間にすったもんだありで、ストーリーは非常に単純明快。

 インド映画お決まりの突然の「歌う、踊る」もあるけれど、インドのことが色々わかる映画。

宗教からインドのしきたり、インドのパキスタンの問題などか詰まっている。

そして、国家同士の対立、宗教対立はやめて仲良くしていこうぜっ!と政治的メッセージもある。

インド映画なのに、インド寄りでもパキスタン寄りでもなく、ヒンドゥー寄りでもイスラム寄りでもない。

どちらの良いところも悪いところも同じように描いている所に共感がもてる。

おっさんと子供のロードムービーな割にいろんなことが凝縮された映画でおもしろかった。

 

観に行ってみたいな、と思った方は、この映画を楽しむには、インドの神話ラーマーヤナ、そして、神様のハヌマーンのことやインドとパキスタンの関係を知っていないとよくわからない。

予習して行くのがおススメ。

 

色々書きたいことはあるのだけど、今回はハヌマーンアーユルヴェーダについて。

バジュランギおじさんが信仰している神「ハヌマーン」とはラーマーヤナに出てくるのがお猿さんの戦士。

体の大きさを変えたり、空を飛ぶことができたり、山をひっこい抜いて運んでくるぐらいめっちゃマッチョで強いお猿の神様。

ハヌマーンを意識してか主人公のバジュランギおじさんもなかなかのマッチョでイケメン。

マッチョ好きな方は必見!

そして、ハヌマーンはラーマ王子(ヴィシュヌ神の化身)のことをめっちゃリスペクトしていて忠誠心もバリバリ。

そのため、バジュランギおじさんはお猿さんに出くわすと手を合わせるし、ハヌマーンが超リスペクトしているのがラーマ王子なので「ラーマ万歳」という言葉を何度もいう。

ちなみに、この「ラーマ万歳」という言葉が最後の最後で心に突き刺さるワードになる。

インドの神聖な動物と言えば牛だけど、お猿さんも神聖な動物。

インドに行った時にお猿さんにオヤツを奪われても決して怒ってはいけない。

お猿様にありがたく差し出そう。

 ラーマーヤナを知らないとなんでバジュランギおじさんがお猿さんを敬うのか「ラーマ万歳」というのかわからない。

そんなわけで、ラーマーヤナのあらすじぐらいは知っていた方がおもしろい。

ラーマーヤナのあらすじはウィキペディアをみればざっくりわかるのでご自身で調べてみて。

あと、ラーマーヤナを知らないと気にならないことが、チョコチョコとラーマーヤナに関係する登場人物とかアイテムがでてきたりする。

インド神話を知っているとインド映画をよりおもしろくみることができる。

そして、インド神話がインド人の日常の中にあることがよくわかる。

ヒンドゥー教を宗教と思っている方々は多いと思うが、ヒンドゥー教は宗教でもあるがヒンドゥー教徒の日常生活、考え方、生き方そのものである。

 

それから、ヒンドゥー教の教えの一つに「嘘をついちゃダメ」というのがある。

そのため、熱心なヒンドゥー教徒のバジュランギおじさんは、なんでも正直に言ってしまう。

子供も呆れるバカ正直者。

事情があってパキスタン密入国しようとするのだけど国境警備隊につかまったり、パキスタン警察にスパイとして追いかけられるんだけど、嘘をついちゃえば誤魔化せそうなのをバカ正直に言っちゃうから、話がややこしいことになったりする。

見ている方が「そこは、嘘ついちゃいなよー」って突っ込みたくなるぐらい。

でも、嘘をつくと「天罰?」的なことがおきたりして「やっぱり嘘はいかんのか?」なんて考えさせられる。

でも、「バガヴァッドギータ」を引用して、正しいことをしてるなら、まぁ嘘も必要なんて感じのことを言われたり。。

どっちやねん、と考えさせられる。

嘘については、アーユルヴェーダの「チャラカ・サンヒター」でも嘘には言及されている。

嘘は基本ついてはいけないのだけど、心がサットヴァ(純質)であり、人のためになる嘘ならそれは罪にならない。

例えば、薬を飲むのを嫌がっている患者に、その薬を飲むことしか治療法がないのであれば「これは薬じゃなくてお菓子だよ」って嘘を言って飲ませることは罪とは言えないってことも言っている。

バカ正直は間違ってはいないけど、人として正しい心をもっていて、人を傷つけたり、陥れたりする嘘ではなくて、相手を救う嘘はアリなのだ。

悪い嘘は絶対にダメだけど、私たちもどうしても相手のことを想うと嘘をつかないといけない時もある。

そんな時は、罪悪感を感じる必要はないのだ。

インドの聖典は出家などしてない一般人が実社会で生きるためのあり方や救いを教えてくれる。

ちなみに、この映画にアーユルヴェーダのことは全然でてこない。

バジュランギおじさんは厳格なヴェジタリアンでイスラム教徒がチキンを食べるのを苦々しくみているけど、アーユルヴェーダは肉食は禁止していないのであまり関係ない。

一応、アーユルヴェーダのブログなので、無理矢理アーユルヴェーダと結びつけるとすると、ハヌマーンは風の神ヴァーユの子供である。

空(アーカーシャ)と風(ヴァーユ)がくっつたのがヴァータだ。

ハヌマーンは風の神の子なので、風のように空を飛んであっちこっちに行ったり、時には暴れる。

ヴァータが悪化すると心があっちこっちに行ったり、体に大きなダメージを与えるのは風の影響なのだ。

それから、ラーマーヤナの中でハヌマーンの尻尾に敵が火のついた布を巻きつけてハヌマーンを殺そうとするのだけど、ハヌマーンが暴れて都が大火事になるという話がある。

火はピッタである。

ヴァータが暴れるとピッタが燃え上がる。

風は火を煽る。

炎症はピッタの悪化の典型的な症状であるが、ヴァータの悪化でピッタが悪化することがある。

ハヌマーンが暴れるのをやめさせないと都の火事は鎮火しないのと同じように、ヴァータを鎮静化させないと炎症はおさまらず、ほっておけば身体を中を焼き尽くしてしまう。

つまり、死だ。

炎症=(イコール)ピッタの悪化、と思っていたら大間違い。

炎症=ピッタの悪化だと思って、ピッタを鎮静化することをするとヴァータが悪化して、さらに炎症がひどくなり逆効果になる場合もある。

実は、こんな風にインド神話からアーユルヴェーダを知ることもできる。

インド神話ヒンドゥー教アーユルヴェーダも「ヴェーダ」という最高の叡智から生れているの。

アーユルヴェーダという医学を知るのに神話なんていらない、と思う方もいるかもしれれないが、全てつながっている。

この世に無駄なことはなにもない。

アーユルヴェーダをもっと知りたい、と思ったら是非、神話にも興味をもっていいただきたい。

 

 

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ハヌマーン