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アーユルヴェーダ塾ジュニャーナ塾長日記

アーユルヴェーダについて学ぶアーユルヴェーダ塾ジュニャーナを主催している「塾長」が古典書にもとづいたアーユルヴェーダのお話を日々綴っています。

アーユルヴェーダは神様の教えを学ぶこと

アーユルヴェーダ

こんにちは。アーユルヴェーダ塾 ジュニャーナの塾長です。


さてさて、いきなりですが質問です。アーユルヴェーダをつくった人はだれでしょう??

 

正解は「神様」

インドの神様でこの宇宙をつくった超絶すごい「ブラフマー」という神様がつくったとされている。超絶すごい神様がつくったからアーユルヴェーダは超絶すごいモノ、ってされている。


神様や神様に近い人、解脱をした聖人が記したものを「聖典」「教典(経典)」といわれていて「神様の教え」が書かれているもの。有名な所ではキリスト教の聖書、イスラム教のコーラン聖典といわれるもの。

インドには聖典と言われるものがたくさんあって、4つの大切な聖典リグ・ヴェーダ」「サーマ・ヴェーダ」「ヤジュル・ヴェーダ」「アタルヴァ・ヴェーダ」、日本で有名な「バガヴァット・ギータ」「ヨーガ・スートラ」「カーマ・スートラ」も聖典アーユルヴェーダの知識が書かれた「チャラカサンヒター」ももちろん聖典。神様がつくったアーユルヴェーダをチャラカをふくめた何人かの聖人が書いているからね。細かいことを言えば、本そのものが聖典というよりかアーユルヴェーダが自体が神様がつくったものであるから聖典って考えた方がいいかな。

ということは、アーユルヴェーダを学ぶことは「神様の教えを学ぶ」ということ。塾長は怪しげな宗教に誘おうとしているわけじゃないから安心してね。インドのモノを学ぶには神様は切っても切り離せないので仕方がない。そういう文化なんであきらめてね。

 

アーユルヴェーダを学ぶというと「病気の治療や健康法」を学ぶことがメインになってしまっていて、ドーシャがどーとかヴァータ体質の人はこういう性格で、こういうものを食べなさい、とか、白湯、舌そうじ、ハチミツ、スパイス料理、ハーブなんかにみんな興味をもっているけど本来はそうことを学ぶものではない。正直に言えば、アーユルヴェーダの健康法だけをやるなら別にアーユルヴェーダじゃなくてもいいと思うよ。なぜかといえば、アーユルヴェーダの治療法や健康法が現状では医学的に証明されたわけじゃない。体を良くすることだけを目指すならアーユルヴェーダじゃなくて、医学的に証明されていることをやったほうがいい。その方が早いし結果もでると思うよ。

アーユルヴェーダを学ぶことはくどいようだけど「神様の教えを学ぶ」こと。別に神様の教えを学ぶのは神様を信じろ、ってことではないから勘違いしないでね。アーユルヴェーダは神様がつくった、ってことを信じなくてもいい(とはいえ、顕微鏡やレントゲン、MRIがない時代に、現代でもつうじる体の仕組みを説明しているから神様がつくったんじゃないかと思うことがあるけどね)

アーユルヴェーダをふくめどんな聖典でも聖典を学ぶということは、自分らしく生きるためにどうすればよいのか、自分の役割とはなにか、生きている意味、人としてのあり方、他人に対してどう接すればいいのか、人生の目的、人として正しく生きること、幸せに生きること、自分と向き合い進化・成長することなどを知って、実践することが宗教的に言えば解脱の道でもあるし、本当の意味での真の幸せを得るために学ぶもの。ヴァータかどう、ピッタがどう、白湯のんでハチミツ舐めなんてどうでもいいっちゃいい。よりよく生きるためには体を整えて健康でいることは大切だけどね。

ただ、チャラカサンヒターにしろインドの聖典というのは書いてあることがまわりくどい。隠れミッキーみたいなもんで、自分で探さないとでてこない。嘘をついたらいかん、他人の物を盗んではいかん、とか実際に書いてもあるのだけど、自分で考えさるためなんだろうけど、はっきり「こうせい、ああせい」とは言ってくれていない部分もあるからよくわからない。深く読まないとスルスルと読み終えてしまって「ふ~ん」で終わる。だから、師匠について学ばないといけないんだけどね。


例えば、みんな大好き「ヴァータ」「ピッタ」「カパ」。「ヴァータ体質の人は、明るくてフットワークが軽いけど、すぐ飽きるよね~」「ピッタ体質の人は情熱的だけど怒りっぽいよね~」「カパの人は優しいけどトロいよね~」とか言う人いるよね~。
体質や気質の違いって何を教えてくれるだろう?塾長が思うには「人はみんなちがう」ってこと。塾長は自分でいうのはなんだけど仕事が早い(雑だけど)。さっさと終わらせて帰りたいタイプ。だから仕事が遅い子がいると「早くせい!」ってイライラしてたんだけど、でも「あの子はカパでのんびり屋だからしょうがない」って思えるようになったら無駄にイライラしなくなって楽になった。むしろその子のペースに合わせたあげられるようになったり、先に帰るね~って言って先に帰っちゃう(ひどいね~)でも、カパの子は先に私が帰ろうがなんとも思ってないんだよね。イライラしてたのは自分だけでアホやん、って気づいた。

舌の掃除や流行りのオイルでうがいすることも歯の健康を守るだけじゃない。確かに、歯が抜けてごはんが食べられなくなったら人は死んでしまうし、白くてきれいな歯は見栄えがいい。けど、アーユルヴェーダはそれだけじゃない。口の中をきれいにすること、歯をみがくことにはもっと深い意味がある。ご飯を食べられることに感謝し幸せに生きるために口の健康を守るのよ。

テレビで「味覚障害」だった人の体験談を語っていたのを見たのね。とにかく「味」が感じられないことはこんなにも辛いとは思わなかった。味覚障害になるぐらいだったら、どこか痛い方がまだ耐えられる、と言っていた。痛みは薬でどうにでもなるけど、味は薬では取り戻せないからね。味覚障害はお腹もすくし、視覚や嗅覚は正常だからおいしそうにみえるし、いい香りがすると「おいしそう!食べたい!」ってなるんだけど、食べるとなにも味を感じない。何を食べてもおいしくない。本当に砂を食べているような感じで、食事をする意味もわからなくなり、それが生きる意味すらわからなくさせて精神がおかしくなった、って言っていたの。味を感じないだけで、生きる意味がわからなくなるなんてすごい極端な気がするけどすごく怖いよね。食べられること、味を感じることってすごい大切ってわかるよね。オイルうがいが流行っているけど、なんのためにやっている?そこまで考えてやっている?

それから、季節の過ごし方のなかで春は「心地よい温度の湯で排泄口を洗うべきである」とある。アーユルヴェーダってオイルマッサージの時のオイルの温度もそうだけど温度の指定がない。数や時間の概念はあったから温度の指定があってもいいと思うんだよね。なんで温度の指定がないかというと「心地よい温度」って人によって違うから。ヴァータやカパの「冷性」が強い人は熱いめが好きだし、ピッタは熱いのは嫌い。特に日本人なんて温度にうるさい民族だと思う。熱いお風呂が好きな人と熱いお風呂が苦手な人がいるでしょ。性格も細かいから温度といったら「37度なのか、42度なのか」って数値で表して欲しい人種。講座で「オイルは温めて使ってね」っていうと必ず「何度ですか?」って聞かれる。アーユルヴェーダでは温度を指定しないのはインド人が大雑把なんじゃなくて「心地よいと思う温度は自分でみつけなさい」ってことなんだよね。さらにいえば自分が心地よいと思うことを知ることは「自分を知る」ことにつながるわけだ。どの温度が自分が心地よいと思えるのか、どういう環境が自分は心地よいのか、どういう状態でいることが自分は心地よいのか「自分を知りなさい」って教えてくれているわけだ。なので塾長は「オイルは何度ですか?」って聞かれたら「自分に聞いて」ってって答えるけどね。

余談だけど、オイルの温度はその人が心地よいと思う温度だからセラピストさんは気をつけてね。自分が心地よいオイルの温度がお客様の心地よい温度じゃないからね。同じお客様でも季節でもかわるし、体調でも変わる。悪化しているドーシャによっても変わる。オイルが冷めないように気を遣うセラピストさんは多いけど、お客様の心地よい温度かどうかに気を配って欲しい。他人の心地よさを知ることは相手を幸せにしてあげられることだからね。それも解脱の道のひとつかもね(笑)

とにかく、アーユルヴェーダは言われたことを言われたままやるのではなくて、やること一つ一つに意味があるからその意味を考えること。チャラカサンヒターもそうだけどいろんな聖典を読むと一行一行に深い意味がある。それをただ読むだけじゃなくて、自分なりの答えをみつけることが聖典を学ぶ意義だからね。同じ文章でも人により受け取り方がちがうだろうし、日によってその日の精神状態や体調によっても変わる時もあるし、経験をつんだり勉強が深まるとまたちがった解釈になる。答えは一つじゃない。聖典を理解するのは難しいし、すごく根気がいるけど、深い意味がわかるとうれしいし心が楽になる。目の前が明るくなる感じが塾長はして、生き方や考え方がかわって生きることが楽になる。

みんなも自分がやっているアーユルヴェーダにどんな神様の教えがあるか考えてみてね。信じるか信じないかはあなた次第だけど、深く考えることは、神様があなたにとって必要な生きるヒントや心を楽にしてくれる言葉をささやいてくれるよ( ̄ー ̄)ニヤリ

 

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