アーユルヴェーダ塾ジュニャーナ塾長日記

アーユルヴェーダについて学ぶアーユルヴェーダ塾ジュニャーナを主催している「塾長」が古典書にもとづいたアーユルヴェーダのお話を日々綴っています。

仕事について考える 〜その5〜

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

「ダルマ」には「使命」という意味もある。

「使命」とはなんだろうか。

 

デジタル大辞泉によると

与えられた重大な務め。責任をもって果たさなければならない任務。

とある。

これは前回書いた「役割」に通ずる。

与えられた自分の役割や仕事を果たすことだ。

 

それから「使命」には

使者として受けた命令。使者としての務め。

という意味もある。

 

「使命」の原義は天の神の命令という意味であったそうだ。

神から授けられた「務め」が人にはあるらしい。

 

また、インドでは前世の行いが今世に影響するので、

前世の行為により今世で果たすべき「使命」があるという。

それを一生懸命にやることが「ダルマ」を果たすことである。

 

この「使命」の話をすると「自分の使命がわからない」というおっしゃる方が多い。

なかには自分の使命をわかっている人もいらっしゃるのだが、

アーユルヴェーダに辿り着く人は、

「自分がどうあるべきか」

「自分はなにをしたいのか」

「自分はいったいなんなのか」

というような生き方に迷いを抱えている方も多い。

 

まれに塾長にその答えを求めにいらっしゃる方もいて塾長も困ってしまう。

塾長は神様でも占い師でもないし前世もみえないので、

みなさんの「使命」がなんだかはわからない。

塾長に答えを求められても困るのだが、

少しでも「使命」をみつけるきっかけになれば、と今回書いている

 

まずは「使命」とは自分がやっていて不自然ではないこと。

例えば「人においしい食事を食べさせる」ということが使命の人は、

料理をしていることが苦痛ではなく、他人に食べさせることが苦痛でないこと。

気を付けたいのは、自分が「料理が使命だ」と思っていても、

自分のエゴを満足させている場合もある。

それは「使命」ではない。

例えば「人に喜んでもらうのが好きだから料理好きなんです。なので料理が私の使命です」という方もいるのだが、

人に喜んでもらえることで自分を満足させている場合もある。

自分が人に何かやってあげていることで、

自分の心の隙間をうめて満足している場合もある。

人に喜んでもらえると幸せなのは、

人に喜んでもらえなかったら不幸なのである。

料理は特に「おいしい」とか「また食べたい」とか言ってもらいやすく、

その人が満足しているかどうかがわかりやすいので自分が満足しやすいのだ。

自分が満足するために作っているのならば「おいしくない」「まずい」などと言われると腹がたったり、もう二度と作ってやるものか、となってしまう。

「使命」=「自分が満足すること」ではない。

たとえ「おいしくない」「まずい」と言われても作り続けることができること。

不自然でないことなので、やらないと自分が気持ち悪いことだ。

例えば、

トイレに行って手を洗うのは(たいてい)の人は自然の流れとして当たり前のようにやっている。

手を洗わないと気持ちが悪くてなんだか落ち着かない。

「使命」もトイレに行って手を洗わないと気持ちが悪いように、

やらないと気持ちがなんだ落ち着かないこと。

勘違いしてほしくないのは感情を持たないことではない。

一所懸命にご飯を作ったのに「まずい」と言われて腹が立たない人間などいない。

腹がたってもいいけど、そこにいつまでも執着せずに、

何を言われようがそれでも黙々と続けられることが「使命」なのかもしれない(成長は必要よ!いつまでもまずい料理を作り続けることとは別ね)

 

それから、たまに「これが私の使命です!!これで私が困っている人を救いたい!!」とやたらとアピールしている人も自分の満足だけで「使命」と勘違いしている場合もある。

自分の「使命」を知り、それにまい進できることはすばらしいことでもあるが、

自己満足と使命をはき違えてはいけない。

 

ノーベル医学賞や物理学賞などを受賞する人たちがいるが、

凡人の私達からみると「こういう人達が神から与えらた使命を持っている人なんだなぁ」と思いがちなんだけど、

意外とノーベル賞を取る人たちって「これが私の使命なんです!」って言っている人がいない。

「ただ子供ころから研究が好きだったから、

大学に入って研究室に入って研究していたらその延長にノーベル賞があった」という人。

「ただ子供のころから「なんで?」を追求していたらノーベル賞をもらった」って軽く言っている人がほとんどなのである。

研究することが自分にとって自然で、研究しないと気持ちが悪い、

わからないと気持ちが悪いから、わかるまで追求していった結果にノーベル賞がついてきただけなのだ。

あるノーベル賞受賞者はその研究が全世界の人たちのためになる研究なのに「世の中の役に立ちたいと思ったこと一度もない」って言いきっていた。

「使命」とは自分がやっていて自然であること。

そして、自分が意識しないところで世の中の役にたっていることなのかもしれない。

 

「私はノーベル賞をとるような研究もしていないし、人の役に立つことなんてできない。使命なんて私にはありません」と悲しいことを言う人がいる。

だれにでも使命はある。

この世のもの、動物、物質、目に見えようが、見えなかろうがすべてのものはなにかの役に立つようにできている。

例えば、太陽は地球に光を与え、熱を与え、生物を成長させる。

動物や植物は他の生き物に食べられることで他の生物に命を与え、

自然な死を迎えれば、骨や枯れた葉が新たな生物を生み出す大地を作る。

物だって人間の役に立つように作られている。

酸素だって眼には見えないけど、生物の命を支えている。

この世、宇宙のもの、なにもかもが何かの、誰かの役に立つように生まれている。

人間も自然の一部であり、宇宙の一部なので同じだ。

だから「自分だけ役にたつことがない。使命なんてない」なんて言われると、

本人は自分を劣った人としてみているのかもしれないけど、

塾長からしてみると「自分だけ特別」って言ってるように聞こえてしまう。

みんなに「使命」はある。

あなたにだけ「ない」なんてことはございませんよ。

 

子育て中のお母さんに「育児で手がいっぱいで、使命なんて果たしてないです」と言われたことがあるが、

子供を育てるの立派な「使命」

子供がいなくなると国は亡びるし、

子供が成長して働いてくれないと社会は成り立たない。

将来世の中の役に立つ子供を育てることも立派な「使命」だ。

 

「ただの事務員で世の中の役にたつような仕事なんてしていない」なんていう人もいる。

ただの事務員でも働いて税金を払い社会を支えているし、

勤めている会社の売っているものが世の中に必要だからその会社は成り立っている。

そこで働く人々を支えている事務員も立派に世の中の役に立っている。

 

「家と会社の往復だけで、仕事もやるにはやっているけどつまんないし、なんの使命も果たしてないし通勤電車の中でいつもそんなことを考えてしまう自分が嫌なんです」

という人もいるが、自分にはつまらない仕事でも、ノーベル賞をとっちゃうぐらい偉業でもなくても仕事をしていることは世の中に立派に役立っている。

細かいことを言えば、毎日、あなたが通勤で電車に乗ることで、鉄道会社の役に立っている。

鉄道会社はお客さんが電車に乗ってくれないと商売にならない。商売にならないと従業員は給料をもらえず生活に困る。人が乗らないと廃線になる場合だってある。廃線になったら露頭に迷う人がたくさんでてくる。

あなたが会社にいくために通勤電車に乗ることが世の中を支えているのだ。

ただ、自分が意識していないだけだ。

 

「使命」は特別なものでもなんでもない。

 

太陽が光を地球に与えるぞ!って思いながら燃えているのか?

豚がおいしいトンカツになるためにいい肉になるぞ!と思いながら生きているのか?

植物がいい土を作るぞ!と思いながら成長しているのか?

みんな自然のまま、自分があるべき姿であるだけだ。

 

自分があるべき姿でやるべきことをやり、日々一生懸命に生きていくこと。

それが天から与えらた「使命」なのかもしれない。