アーユルヴェーダ塾ジュニャーナ塾長日記

アーユルヴェーダについて学ぶアーユルヴェーダ塾ジュニャーナを主催している「塾長」が古典書にもとづいたアーユルヴェーダのお話を日々綴っています。

とり入れるべきもの、すてるべきもの

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

アーユルヴェーダでは「とり入れるもの」と「すてるもの」がある。

 

肉体を維持するためには、栄養をとりいれなければならない。

ドーシャ(ヴァータ・ピッタ・カパ)をバランスし、

アグニ(消化力・代謝力)をよくするには、

積極的にとり入れるべき食べ物

逆に、すてた方がよい食べ物

(廃棄することではなく、食べるのをやめた方がいいということ) 

がある。

 

「とり入れるべきもの」「すてるべきもの」は、食べ物だけに限らない。 

病気を治療するための

ハーブの飲用、オイルマッサージやシローダーラといった技術はとり入れるべきもの

アーマ(未消化物)や過剰になったドーシャはすてるべきもの

 

とり入れるべき良い習慣

すてるべき悪い習慣

もある。

アーユルヴェーダの日常生活法や季節の過ごし方は、とり入れるべき良い習慣だ。

良い習慣の反対のことは、すてるべき悪い習慣である。

 

さらには、

とりいれるべき「知識」

すてるべき「無知」

がある。

 

とり入れるべき「知識」は聖典の学習と一般的な知識である。

すてるべき「無知」は、欲望、執着、怒り、悲哀、怠惰、快楽・・・等々

「知識」は「無知」をなくし、健康にもよいし解脱への道である。

「無知」は病気を引き起こし、オージャスという人間の生命力を奪い、

輪廻の渦に巻き込まれる。

 

実は、この「とり入れるべき知識」と「すてるべき無知」が一番難しい。

食べ物や習慣は、実は自分でコントロールできる。

アーユルヴェーダを始めると、最初につまずくのが食事で、

○○体質は✖✖を食べた方が良い、とか、△△は食べたらいけない、

などという言葉に踊らされて、自分が何を食べたらよいかわからなくなってしまう。

しかし「とり入れるべき知識」と「すてるべき無知」ができていれば、

食べ物や習慣は自身で簡単にコントロールできるようになる。

 

「とり入れるべき知識」は終わりがない。

私達は、この世にあるすべての知識を身に着けることなんて絶対にできない。

一般的な知識は、私たちが小学校、中学、高校、大学で学ぶこともそうだし、

仕事のやりかた、生き方、人間関係、道徳、倫理・・・ありとあらゆる知識である。

一般的な知識でさえ、この世にある全てを理解することなぞできない。

でも、少しでも多くのこの世にある知識を得るために一生勉強し続けなければならない。

 

そして、聖典の知識は「神の知識」である。

アーユルヴェーダもこちらにはいる)

「神の知識」を理解することなんて簡単にできやしない。

アーユルヴェーダでさえ、チャラカ・サンヒターを読んだだけで理解できるものではない。

アーユルヴェーダは、聖なる知識としてサンスクリットヴェーダの知識も必要であるし、現代医学、現代解剖学、現代栄養学、植物学、自然科学、インドの文化、歴史などの一般的な知識と両方が必要である。

アーユルヴェーダを理解するには幅広い知識が必要になる。

 

そして、最も難しいのは「すてるべき無知」である。

欲望、執着、怒り、悲哀、怠惰、快楽・・・等々

こいつらが、なかなかすてることができない厄介なものだ。

人から良く見られたい

完璧な自分でありたい

愛されたい

幸せになりた

あの人に認められたい

お金が欲しい

良い暮らしがしたい

あれが食べたい

あれもこれも欲しい

めんどくさいからやりたくない

私は間違っていない

有名になりたい

あいつが嫌い

あいつのせいでダメなんだ

あいつがムカつく・・・

自分が「無知」であることに気がついていないという「無知」もある。

病気の方には大変申し訳ないのだが、病気になることも「無知」である。

病気にはかならず原因がある。

病気になる原因は「無知」から起こる。

病気はドーシャ(ヴァータ・ピッタ・カパ)のアンバランスから起きるが、

ドーシャをアンバランスにさせるのは自身の「無知」である。

 症状は薬などによって一時的に治めることはできるかもしれないが、

「無知」をすてない限り再び同じ病気になる。

もしくは、もっと酷い病気になる可能性がある。

 

「無知」をすてるのは「知識」である。

一般的な知識も必要だが「聖典の知識」と両方が「無知」を治す唯一の薬だ。

しかし、聖典を読んだだけでは「無知」は治らない。

チャラカ・サンヒターやバガヴァッド・ギータや聖書や仏典を読んだだけでは「無知」はなくならない。

聖典を読み「自分の無知に自分自身で気がつかなければならない」

 

そして、その「自分の無知を自分自身ですてなければならない」

他人の力ではどうにもならない。

それには、自分の心、過去のトラウマ、コンプレックスなどの自分のダメな部分に真正面から向き合わなければならない。

自分の触れられたくない部分にふれることにもなる。

それは、辛くて苦しい。

受け入れたくないこともたくさんあるだろう。

しかし「受け入れられないことも無知」である。

 

「無知」はなぜすてるのが難しいのか。

それは「無知」にしがみついていることは「楽」だから。

前にブログでも書いたが、たとえば、病気になった方で、治す気がない方がいる。

なぜなら、病気でいることが楽な場合がある。

聖なる知識の一つとして、人にはダルマ・アルタ・カーマという人が一生のうちにやらなければならない課題があるのだが、病気はこれらを果たすことを邪魔する要因になりやすい。

誤解しないでいただきたいのだが、

病気だとダルマ・アルタ・カーマを果たすことができない、ということではなく、

病気でも十分できるのだが、病気を言い訳にしてやるべきことをやらない、となりやすいのである。

やるべきことをやらないのも「無知」である。

また、「無知」にしがみついていることは、それはそれは楽だし楽しい。

塾長はいつも「怠惰」という無知にまけてグータラ生活を楽しんでしまい、やめられない。

「無知」のかたまりのような人間である。。

偉そうなことをブログで書いていながら、まったくできていない。

自分の「戒め」のために今このブログを書いている。

 

 あなたは何を取り入れて、何をすてますか?

 

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