アーユルヴェーダ塾ジュニャーナ塾長日記

アーユルヴェーダについて学ぶアーユルヴェーダ塾ジュニャーナを主催している「塾長」が古典書にもとづいたアーユルヴェーダのお話を日々綴っています。

あなたの評価とはなにか

こんにちは。アーユルヴェーダ塾ジュニャーナの塾長です。

 

わたしをわかってくれない
わたしを正当に評価してくれない
わたしはこんなにがんばっているのに
わたしはこんなにやってあげているのに
だれも感謝してくれない
...などなど

今、自分がいる場所で自分を認めてもらえない、と苦しむ人がいる。

 

なぜ「今」「この場所」で評価されなくてはならないのか。
他人からの評価はモチベーションアップになる
給料があがり生活が豊かになる
店の評判あがれば経営が楽になる
知名度があがる
名誉を与えられる
...などなど

「評価される」ということは、
自分の精神的、物質的に満たしてくれる。

少し考えていただきたい。
「今」
「この場所」
で評価されることが、あなたの本当の評価なのか?

 

なぜこんな話をするかというと...(長文、ごめんなさい)

最近、年齢のせいか親戚、元上司、友人の親などの訃報を耳にすることが多くなってきた。
誰かの訃報を聞くと思いだす方がいる。

 

数年前に塾長が会社員時代に大変お世話になった上司が亡くなった。
50代前半という若さだった。
その方は誰でも知っている大手企業にお勤めで優秀な方だった。
しかし、30代で命にかかわる大きな病気になった。
一命はとりとめたものの一生薬を飲まなければならず、
また、病気がいつ再発するかわからない状況になってしまった。
会社に復帰はしたものの大手企業はシビアである。
どんなに優秀でも体調面の不安から、
やりがいをもっていた仕事からはずし、
また出世の道も閉ざしてしまった。
会社の本心はわからないが、
誰の目からみても病気によるリストラだった。
今ならブラック企業で訴えることもできただろうが、
そういう時代ではなかった。
そして、いろんな部署を転々しながら塾長が働く子会社に出向となった。
態度にも言葉にもださないがご本人も会社の露骨なリストラと自分の現状を受け入れていた。
そして、自分が出世することや成績を残すことより、
出向先での部下の育成に力を注ぐようになった。
能力があろうが、なかろうが、がんばっている部下を応援し、
時には本気になって叱っていた。
一生懸命にやっている部下が正当に評価されないとお偉いさんに噛みついた。
ある時、20代で病気になりその上司と同じように親会社から出向になった部下がいた。
努力して入った大手企業なのに入社して数年で、その会社でやりたいことがあったのに病気のせいで二度とできなくなってしまった。
周囲も気を使ってしまいみんなが彼を腫物を扱うような感じでいた。
その上司だけは、
彼が別の道でも生きていけるように、
その子が腐らないように、
彼の眠れる能力を引き出し、
彼を見事に本社に戻した。
そのことをその上司は自慢するわけでもなく、
純粋に本人が努力した結果だ、と喜んでいた。
逆に、仕事をしないやつ、
上司にゴマをするやつ、
仕事に前向き取り組まないやつは、
バッサリ切り一切認めなかった。
気前もとてもよく部下を飲みにつれて行ってくれた。
会社の金で飲み食いする役員たちとは違い、
身銭を切っていろんな物をご馳走してくれた。
「お前らと飲みに行くと翌月のクレジット明細を怖くてみれん」などと言っていた。
それは、派遣社員契約社員であろうと変わらず、
がんばっていれば誰でも評価してくれる方だった。
がんばっていても不器用で評価されない社員、
評価されにくい派遣社員契約社員から絶大な人気があった。
塾長はその上司とは部署は同じなものの課がちがったが、
当時は塾長もそれなりに頑張って働いていたので、
その上司がよく見ていてくれて、
よく声をかけてもらった。
飲みにつれて行ってもらって愚痴をよく聞いてもらった。
退職した後も気にかけていただき食事に誘っていただくことも多々あった。

ある年のゴールデンウイーク明けにその上司が出社されないので、
会社の人からご家族へ連絡し見に行ってもらった。
部屋で倒れて亡くなっていた。
亡くなってすでに数日たっていたそうだ。
塾長はすでに退職していたが、お通夜、告別式に参列させていただいた。
そこにいたのは、
号泣する女子社員たちや、
転勤で地方に勤務になった方、
塾長のように退職した方もいた。
多くの人が参列され、
多くの人が突然の別れを惜しんだ。
多くの人がお世話になったことの感謝を年老いたお母様に伝え、お母様を励ましていた。
その上司は病気のこともあったのか結婚をしていなかった。
お母様もご兄弟もそのことを心配されていたが、
葬儀で号泣する女の子たちをみて、
自分の息子が結婚していなくても実はモテモテだったと知ってうれしかったようだ。
塾長も退社して何年もたつが、
お世話になったことを感謝し、
今も忘れていない、と伝えさせていただいた。
そして、お通夜の夜、元同僚たちと元上司との思い出話を泣きながらたくさんした。
亡くなって何年たっても未だに元上司の事を思い出すことがある。
元同僚たちと集まれば、
必ずその上司の話しがいまだにでる。
結局、その上司は会社では出世はせず、会社では評価されなかった。
むしろ、役員におかしなことがあると噛みつくので、会社では疎まれていたかもしれない。
でも、家族でもない人たちが涙を流し、
亡くなった後もずっと想ってくれている。


元上司との逆の話もある。
塾長の相方の亡き父は、

アルコール依存症で家族にさんざん迷惑をかけた。
母は夫に泣かされてきた。
そのとばっちりが子供たちにもきた。
最期は飲みすぎて亡くなった。
葬儀では家族は誰も泣いていなかった。
もしろ、家族は「ヤレヤレ」という安堵の雰囲気が漂っていた。
友だちや親戚とも飲むと喧嘩したり、    倒れたりして迷惑をかけていたので、
友だちも親戚もおらず、

母の友人や町内会の役員がお義理で数名来ていたぐらいだ。
亡くなった後、子供たちから父親の思い出話は一切でない。
母は口を開けばもうすぐ十三回忌だというのにいまだに夫の文句を言っている。
仏壇も本来も母の家に置くのが筋なのだが、なぜか我が家にある。
命日でも誰もお参りには来ない。
おそらく命日をみんな忘れている。
塾長が命日に「お父さんだれも来ないねー」とひっそりお酒をお供えしている。


何が言いたいかと言うと、
「今」「この場所」での評価は、

あなたの人生のなかの一瞬でしかなく、
本来のあなたの一部分でしかない。
人は必ず死ぬ。
死ぬ時が人生の決算であり、
本当に評価されるのは、

あなたが「亡くなった時」
そして

「亡くなった後」である。
評価とは自分を評価することでもない。

自分の周りの人、
自分と関わった人たちがすること。
自分の評価と他人の評価が一致しないから、と苦しむことではない。
人生の最後の評価は、

あなたの勤務態度や業績が評価されるのではない。
あなたの「生き方」が評価される。
死んでしまえば自分の他人からの評価は知ることはできないが、
泣いてくれる人がいる
感謝される
亡くなった後も思い出してくれる人がいる

泣いてもくれない
感謝されることもない
亡くなった後は思い出してもらえない
亡くなったのに文句を言われる
あなたは人生最期にどんな評価を得たいだろうか。
あなたが理想とする評価を得るためには、

「今」何をしたらよいのだろうか。

 

「今」の評価、「今いる場所」での評価を求めることは別に悪いことではない。
しかし、

そればかり求めると、

評価を得たい

今の評価を失いたくない

という気持ちから「エゴ」や「執着」がうまれる。

「エゴ」や「執着」は正しい道からはずれていく。
怒りや憎しみ、不安、悲しみなどの元になる。
さらには、
人を蹴落としたり、
嘘をついたり、
やってはいけないことをやるようになってしまう。
怒りや憎しみ、不安、悲しみ、嘘や欲望は、アーユルヴェーダではよくないものとされる。
オージャスを減らし病気になる。
さらに言えば「悪い行い」は解脱できなくなる。
生まれ変わり、再びこの苦しみの世を生きなければならなくなる。

 

勘違いしてほしくないのだが、
死ぬ時に評価されたいために自分が我慢することではない。
良い人ぶることではない。
自分の評価を気にせず、
誰かのために頑張れる人、
その人のために汗をかいてくれる人が、

本当の評価を得る。
評価はあなた以外の人がすることだから。

 

亡くなった後も尊敬される偉人と言われる人々が数多くいる。
偉人といわれる人たちは、

自分のためではなく誰かのために努力し、
評価などどうでもよい人ではないだろうか。
ただただ目の前の問題や課題に全身全霊で取り組んだ人達が、
死後、何十年、何百年たっても評価され尊敬されている。
あなたが世界中の人が知っている偉人になる必要はない。
今、あなたのまわりにいる人たち、

あなたと一日でも一瞬でも関わった人たちから偉人と思われればよいのだ。
自分で自分を評価していたり、
目先の評価を気にしていたら、
そうはならない。

 

 

今もしあなたが死んだら、
どれだけの人が泣いてくれますか?
どれだけの人が感謝してくれますか?
何年たってもあなたを思い出してくれる人がいますか?

あなたの生き方次第で人生の最期の時に、

「最高の評価」

をしてもらえることを忘れないでほしい。